…漆入門。…

私は、漆が、不思議で、魅力的な素材だとか、モノを、作るのが好きで、手作りの仕事がしたいとか、津軽塗の、美しさにひかれて 仕事始めたわけでは、ありません。全ては、人との出会いから始まったと、思っています。

 私には、漆に関して、三人の恩人がおります。城倉可成さん、望月好夫さん、三上勝三さん、この三人には、感謝の気持ちで、いっぱいです。

高校を、卒業して、進学するわけでも、就職するわけでもなく、悶々として、生活していました。同じような(今で言えば、フリーター)友が、いたから、四年近くかかりましたが、漆を始めることが、できました。 昭和四四〜五年頃、知りあいから、一枚のDMをもらいました。もう、終わってしまった、展示会のDMでした。「おもしろい人だから、一回会いに行けばいいよ。」ということでした。  それが、城倉さんとの初めての出会いでした。電話をして、「お話を聞きたい。」と言ったら、今暇だから、「すぐこい。」と言うことなので、尋ねていきました。  初めて会う城倉さんの第一印象は、どっしりしたという感じでした。DMを持って行ったので、「漆クラフト」というのは、"何"と言うことを、初めに聞きました。正確では、ないけれど、「漆を、素材にしてモノ作りをして、今、生活をしている人に使ってもらうということだ。」と答えてくれました。   それから四〜五時間ぐらい、話しましたが、一回も漆の話は、でませんでした。今思えば、私が、あまりにも無知なためでした。私も、漆には、興味がありませんでしたから、仕方のないことだと思っています。星の話とか、砂の話とか、自然のおもしろさ不思議さ、そんな話を飽きもしないで、話してくれました。

 

 二年間で、四,五回尋ねてお話をしました。話をしている内に、この人は、嘘を付いていないと言うことに気づきました。そういう人がしている仕事なら、間違った仕事では、ないんじゃないかと思いました。城倉さんの仕事は、うちで使っているモノをいろいろ見せてもらいました。私が、「漆をやってみたい」。と言うと「津軽塗か?」といいました。「え!津軽塗も漆の仕事?」ここから、全てが始まりました。

 それから一年くらいしてから、工業試験場に研修制度があるからという話を、してくれた人がおりました。その人が、漆工課長を知っているから、紹介してもらいました。連絡も取らず、会いに行ったら、出張中で、主任の方が、会ってくれました。結論から言えば、研修は断られました。 生意気だったのか、漆のことも津軽塗のことも、あまりにも知らないからか、生意気だったんでしょう。

 一週間ぐらいして、試験場の漆工課長から連絡があり、「私が、紹介されたんだから、一回会いに来なさい。」ということでしたので、会いに行きました。それが、望月好夫さんとの出会いでした。  昼近くに会いに行き、初めは、城倉さんの話をしましたが、もう漆をしようと言う気持ちは、かなり無くなっていました。津軽塗は全然やるつもりは、ありませんでしたから。

 その後、だらだらと話をして、気が付いたときは、暗闇でした。(望月さんと話すと、今もそうなんですけど、)そして、もう帰ると言うときに一言「津軽塗も悪くないよ。」「ええ!!」「どこか知らないか?」「組合の工場が、あるのは、知っています。」「あそこは、悪くない。おもしろいかもしれない。もし断られることがあったら、私が、城倉さんに頼んであげるから、まずそこへ行ってみて。」これが、津軽塗へいく発端。

 昭和四十六年十一月二十一日昼過ぎ、津軽塗の組合へ出かけていきました。理事長が、三上勝三さんでした。工場の形態は、共同作業場という不思議なものでした。職人さんが、七,八人いて、それぞれに家族とか、お弟子さんが二,三人いて、各自が、それぞれ自分の仕事をしているという、独立採算性みたいなものでした。

 私を、弟子にしてくれる人は、いませんでした。そこで、条件として、道具、材料は、自分で揃える、できたモノで、売れそうなものは、組合が買い取る。もちろん、社会保険は、なし。ということで、あすからでも、来ていいと言うことでした。

 十一月二十二日朝「4%pantomime」を聴いて気合いを、入れてでかけました。 小春日和でした。




ようこそ、漆の世界へ!