…津軽塗…

自分の座布団を持って、自転車で、30分ぐらいの道を半分期待、半分おそれを抱いて工場へ行きました。みんなに、挨拶をしてから、急須台を仕上げることになりました。道具は、勝三さんのを一時借りることにして、生漆は、五百匁買いました。三千円だったと思います。もちろん中国産です。

 

二ヶ月かかり、仕上げましたが、今みると悲惨なモノでした。その二ヶ月の間に、少しずつ道具と材料を揃えていきました。半年ぐらいすると、どうにかこつが、少しですけど分かってきました。やはりそれなりのモノに、仕上げるには、四,五年かかりました。初めの三年くらいは、稼ぎのほとんどを、道具、材料に当てました。ほとんどコレクター状態でした。  周りの人の仕事をみて、いいことは、まねました。一人の師匠に、付いているわけではないので、そこは、いまにして思えば、ラッキーなことだと思います。ともかく、勝三さんは、「塗り物は、下地だ。下地が命だ。」とよく言っていました。そのせいか、私は、下地の仕事が、大好きです。

 

そこの組合には、二人の仕事で、尊敬できる先輩がいました。もちろん勝三さんも仕事は、できる人でしたが、漆業界の役職に忙しく、仕事をすることは、少なかったように思います。一人は、須藤哲朗さん、もう一人は、三上恵敏さんです。勝三さんの弟さんです。哲朗さんは、オリジナルの塗パターンを、持っていて、今の私の仕事には、大変参考に、させてもらっています。

 恵敏さんは、工場にいて、仕事を目の前で見せてもらいました。ともかく、数多く仕事をする人でした。仕上げも上手でした。私の数作りの原点は、恵敏さんにあるようにも思います。目標になる先輩がいたことは、仕事を覚えるのに大変励みになりました。

  

 四,五年すると、修理の仕事もするようになりました。この修理の仕事は、本当に勉強になりました。その頃、伝産法ができ、毎年のように講習会がありました。私は、ほとんどに参加しました。講師の人もすごかったです。城倉さんはじめ、六角大壌先生、秋岡芳夫さんなど。組合以外の同業者の話を聞くのも刺激的でした。地元の、上手、名人といわれる人とも知りあいになれました。

 

その頃から、全国ぬりもの展(全国漆器展)へ出品しろということになり、まずは、弘前でお披露目することになり、搬入して、他の人のを見てびっくりしました。特に、研修でいっしょだった、神田尚彦さんの仕上がりには。「何でこんなに違うの?」と聞いても、にやにやしているだけで答えてくれません。そこに哲朗さんが、来て。「神田さんは、日本産を使っているんだ。組合の漆とは、違うんだ。」といいました。それからです、毎年日本産の漆を買うようになったのは。

 それから二十年近く、組合の仕事をしました。勝三さんも理事長を辞めてしまいました。 いい潮時だと思いそれからは、組合の仕事は、止めました。

 
 


ありがとう 津軽塗