…今の仕事…

 今の仕事は、いきなり始まったわけでは、ありません。昭和六十年頃には、いろんな産地のお椀の木地が、かなりの数集まりました。家族が、使用しているお椀も十年以上たち、お椀の内側の処置(つまり下地の仕方)にも自信がついた頃でした。弘前は、お椀の産地では、ありませんから、誰に聞いてもあまりはっきりしたことを、教えてくれませんでした。それなら、自分で実験をしてみれば確実でないかと思い、いろいろやってみました。そして、十年以上使ってもほぼ大丈夫という、処理の仕方を覚えました。

 確か平成元年だと思いますが、望月さんが、工業試験場の場長になりました。夏の暑い日に、友人の武田孝三が、やってきて「望月さん、場長室で暇がっているから、顔出してやれや。」というもので、試験場へ行ってみると、確かに暇そうな感じでした。”良く来た。”と言うことで、お茶を飲んで、話をしていると、「そう、そう」と机の引き出しから、四,五枚のコピー用紙をだしました。見ると、「漆 百椀展」というDMとかチラシとかポスターのデザイン画でした。「もう そろそろやってもいいんじゃない?」と言われました。

 それから、何日かして、孝三が来たとき、それを見せたら家内と二人「これは、やらなくてはいけないでしょう。頼まないのに望月さんが、書いてくれたんだから。」と言われ、引くに引かれぬ状態になってしまいました。望月さんには何年か前、やるのならお椀の展示会をしたい旨は、言ってましたけど・・・

 それが、最初の展示会をするきっかけです。

それから三年、平成三年に弘前で、初めての展示会を開きました。四百五十個のお椀で、新しい歩みをとぼとぼと始めたわけです。弘前、仙台、青森と二年がかりの展示会をしました。 展示会は、ほとんど貸しギャラリーを使っています。   その後は、「漆 いろいろ展」というので展示会をしています。

デパートの展示会では、売れると売れるだけ、赤字になると言うことも経験もしました。でも デパートで知りあいになった使い手のうち、何人かは、長くおつきあいさせてもらっております。

 漆の仕事は、百人の人が、見に来ても、理解してくれる人は、一人か二人ぐらいだと思います。私が、幸せなのは、弘前の人と言いますか、青森県の人ほど、漆のモノを、普段使いしている県民は、いないでしょう。その人達にどれだけ支えられたか。これからは、青森県に、こだわらないで、少しでも多くの人に使ってもらえるようなモノを、つくらなくては・・・・

 城倉さんの言っていたこと「はっきり言えば、その時代、時代の社会に還元されるモノを作ればいいんです。皆が、喜んで使ってくれるモノをね。それをどのように作り出すかが、我々生きている者の問題なんです。、個人、個人の自覚の問題、考え方の問題が、一番大きいことなので、時間が、かかっても無理をしては、いけないんです。」それから「焦っては、いけない。無理しては、いけない。思い上がっては、いけないよ。」この言葉を信じて、日々新たな気持ちで、仕事が、できればいいんですけど。

 
ようこそ、漆の世界へ!