…津軽塗が変だ その二!!…
津軽塗というのは、唐塗が中心です。それも「両彩色の呂上げ」というのが
一般的にいっている津軽塗です。それが売れなくなっているみたいなのです。
私も組合の仕事をしていた時は、90%「両彩色の呂上げ」の仕事でした。
テーブルを塗るのも、お盆を仕上げるのもほとんど「両彩色の呂上げ」でした。
これでいいのかな?という気持はありましたが、注文があれば仕事はします。
産地の仕事はそんなものです。
組合の仕事を辞めたのは、 津軽塗の仕事がいやになったのではなく、環境が厭になったのが一番大きいことだと 思っています。仕事をするからは、少しでもよいモノ、喜んで使ってもらえるモノを つくるのがあたりまえのことだと今でも思っています。それができない環境にいて仕事をするくらいなら 自分なりに仕事をしていくよりないのでは、と思いました。
組合の工場では多い時で25人ぐらいは仕事をしていました。 そのうち、5〜6人くらいは若いお弟子さんでみんなそれなりに独立して 自分で仕事ができるようになっていきました。 私が組合の仕事をしないようになってもその人達はそれなりに 組合の仕事をこなしていたようでした。 それが何年か経って一人辞め二人辞め終いにはみんな廃業してしまったと言うことを 聞いてびっくりしてしまいました。 組合で育てた若い人が一人もいなくなると言うことの異常さは、ただごとではありません。 これで後継者不足はないと思います。
なぜそんなことになってしまったのか確かな情報はわかりませんが、 津軽塗だけでは、生活が成り立たないという人もおりました。 仕事が少なくなったからという人もいました。 仕事に二回も三回もクレームを付けられて、”仕事にならない。” という人もおりました。 それなら自分で自分の仕事をすればいいと思いますが、 ことはそんなに簡単にはいかないのです。
請負の仕事だけをしてきて、自分で営業ということを一度もしたことがないひとが、 どのようにして売りさばくことができるでしょうか? ほとんど不可能です。
職人仕事の崩壊なのでしょうか。 需要があるから生産ができる、注文があるからモノづくりが可能なので それがなくなると産地として機能しなくなってしまいます。 使い手と売り手、営業とつくり手、これが一本の筋みたいになっていなければ だめなのに、全てつくり手にしわ寄せが来てしまったみたいです。
私の仕事は自分では津軽塗だと思って仕事しています。
今は同じお盆を100枚つくるという仕事はしていませんが、
いつでもできるという気持はあります。
モノづくりは、これでよいということがない仕事だと思っています。
それなりの技術、いろいろな経験、自分にあった道具、良い材料と素地、モノの考え方、
それらを駆使して自分らしいモノづくりをしていくより方法はないと思っています。
津軽塗の逆襲はきっとあると思っています。